四重目

 四重目は「西十二間(4-1)」から始まる。「漢数字」+「間」なので「ま」ではなく「けん」と読み、「南十二間(4-3)」「次十二間(4-4)」と続くので四重目は12間四方と仮定する。仮定としたのは、そんなに単純ではなく、下階の構造と関連しているからである。

 因みに「十二間」を室町時代の表現に従い24畳と解釈するのは間違いである。他の階の同規模の部屋には使われていないからだ。但し、この「十二間」は武者走りと考えられるが「岩之間」「竹間」と表記されている事から、単に廊下ではなく、天井が貼られた居室扱いされている特別な空間と思われる。

 ここで注目すべき所がある。西→南→東と内覧者は歩を進めている。つまり、北側から下って来た事を示しており、三重目への階段は北側に存在する事になる。三重目の北側の「四畳半」の半畳部分には階段が接続し、二重目の軸方向力を受ける柱が通る為、四畳半しか確保できなかったと考えられる。恐らく、この四畳半は信長が上階に居る時に下階への連絡や信長への報告のために近侍が待機する場所で、本来なら階段の登り口なので畳は不要であるが、信長の老婆心からか、畳が敷かれていたのだろう。

 北側から上がり「こやの段」を通って南の四畳半から二重目へ。更に北側へ回って「こうらん」を上がり上一重へ。構造上、上一重への出入りは室内ではなく、金閣寺・銀閣寺と同様、縁側からと推定できる。

 話を戻して、「西八畳敷(4-2)」「東八畳敷(4-5)」「次八畳敷(4-6)」「御小座敷 七畳敷(4-7)」「北十二畳敷(4-8)」「次十二畳敷(4-9)」「次八畳敷(4-10)」これらを順路通りに組み合わせると6間四方に納まる。東側に8畳分のスペースが空くが階段室と推測できる。

 ここで問題がある。四重目を12間四方とすると6間四方の周りに3間幅の武者走りが存在する事になる。先述の通り、2間幅を限度とするので四重目は10間四方となる。では、残りの2間は?下階を読み解かなければ明らかにはならないが、ヒントは姫路城にあった。

 また、「御小座敷 七畳敷」とは茶室の事であり、天正六年の茶の湯の会は、ここで催されたと考えられる。「天正六年茶湯記」に由ると、「右勝手六畳布、四尺縁」とあるので、内覧の頃には「四尺縁」が畳敷きに改修されていた事になる。

「北十二畳敷」「次十二畳敷」は襖を開放して二室一室にできる。恐らく茶会に来た来客をもてなす為の部屋で、絵が描かれている西側が上座なのだろう。その他の部屋は、茶会に呼ばれるまでの控室だろうか。水屋も存在すると考えられるが、どの部屋かは判らない。南側の八畳敷(4-6)辺りだろうか。

 構造上注目しておくべき事は、「一重目」から「二重目」まで3間四方で柱が通っており、「四重目」以下は6間四方が コアとなって「こやの段」でジョイントされている構造である。本来なら5間四方とするべきだろうが、部屋割りの関係で6間四方になったと推測される。

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