五重目

 四重目と違い「十二畳敷(5-1)」から始まる。方位が示されていないので、建物の中心に位置している事を示している。「別ニ 一段四畳敷(5-2)」とあり、所謂“謁見の間”である。配置は「天子南面す」の言葉通り、「十二畳敷」の北側に上段の間である「一段四畳敷」が配置されていたと考えられる。ここに宣教師から送られた椅子を置いていたのだろう。間は御簾で仕切られていたのだろうか。更に南側へ「八畳敷(5-3)」と続く。「十二畳敷」には信長の家臣や近侍の者が座し、「八畳敷」に来客が座したのだろうか。

「東 麝香の間 八畳敷(5-4)」「十二畳 御門の上(5-5)」これら2室は連続しており、「御門の上」とは文字通り天主1階の「御門」の真上に位置すると考えられ、「八畳敷」からは1段下がった所に在る。天主本体からは突出(附櫓)しており、用途を考えると畳が敷かれている事から見張り台とは考えにくい。では何か?隣室の「麝香の間」の「麝香」とは、ジャコウネコやシカの絵であろうか?麝香(ムスク)の香りのする部屋と考えると、「十二畳敷」からのニオイを打ち消したい、つまり「十二畳敷」は来賓用のトイレと解釈するのが妥当である。恐らく、御虎子(おまる)の様な物を使って、排泄後は床板の一部を外し、階下の御門の外へ降ろす。そういった使い方なのだろう。但し、利用できるのは身分の高い者のみで、その他の者は「二の丸東溜り」の厠へ案内されたと思われる。現存天守にも同じ様に突出している箇所を見受けられるが、用途ではなく、意匠のみを模倣したと考えられる。余談になるが、「二の丸東溜り」で出土した漏斗状の黄瀬戸は、私には尿瓶か小便器にしか見えないのだが。

「次八畳敷(5-6)」「北廿畳敷(5-7)」「次十二畳敷(5-8)」は東側に位置し、来客を食事でもてなす部屋と考えられる。「北廿畳敷」は5間×2間以外に組合せは無く、長辺を東西方向に配置すると建物中心から東端まで6間となる(南北方向も検討したが、順路や柱数が合わなくなる)。当初、四重目と五重目は同大の10間四方だろうと推測していたので、突出する部分をどう収めようかと思案していたが、姫路城同様、東西に大千鳥破風を用いれば解決するのである。つまり、「四重目」「五重目」の東西に大千鳥破風、南に千鳥破風(恐らく北側にも存在する)を配置すれば、「四重目」は12間確保できる。

 そして“謁見の間”の西側に「廿四畳敷 物置の御なんと(5-10)」「御縁二段ひろ縁(5-9)」を順路通りに配置した。「御縁二段ひろ縁」は姫路城の様に中間階の様な構造で、今で言うステップフロアで1段高い位置に在り、天主台に沿って角度を付けて配置されている。これは三の門から侵入してくる敵を狙撃する為の高台なのだろう。よって、岡山城の様に、それに合わせて破風も斜めになっており、東側も同様である。「御縁」なので突上げ窓ではなく、連子窓と推定される。「物置の御なんと」には鉄砲や弾薬等が保管されていたと思われるが、畳が敷かれていた理由は判らない。「口ニ八てう敷之御座敷(5-11)」は来客が出入りする部屋で階段が接続している。

 また、全ての部屋を配置しても余剰部分が在り、その部分は武者走りや階段室で充当するのが建築的には妥当である。主従関係に厳格だった信長なので動線は分かれていたはずである。 更に武者隠しである千鳥破風を南北に2箇所づつ配置し、姫路城同様、大千鳥破風隅部分にも隠し部屋を配置した。南北の千鳥破風は意匠的な意味合いもある。また、構造上、天主北西部分には3階建の櫓門が接続していたと推定される。この櫓門は本丸(伝二の丸)への唯一の通用門である。この3階部分からも三の門を狙えたと思われる。

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