五重目と同じく「十二畳敷(6-1)」から始まり、「御書院有(6-2)」とあるので信長の書斎と思われる。「次四てう敷(6-4)」は床の間であり、書かれてはいないが当然の如く、床脇(6-3)も存在したと考えられる。位置は五重目の“謁見の間”直下に配置すると構造的にもしっくりくる。つまり、建物の中心とも言える場所である。この「十二畳敷」の南側に「又十二てう敷(6-5)」西側に「又其次八畳敷(6-6)」が在り、この「八畳敷」は「帳台構え(信長の寝室)」だと考えられる。
順路通り、南に「十二てう敷(6-7)」「八てう敷(6-8)」、そこから東に「十二畳敷(6-9)」「御縁六てう敷(6-10)」を配置する。「十二畳敷」「御縁六てう敷」は南に面しており、連子窓が在る。恐らく家臣からの報告等を受ける場所ではないだろうか。一段下がった所にはガラリ(隙間?)が在り、「七重目」からの温められた空気が吐出される。
「次三てう敷(6-11)」は南殿(伝本丸)への通用口で信長専用である。ここに豪華な(恐らく極楽橋の様な)渡り廊下が接続していたと考えられる。この廊下は有事の際に切り落とせる構造であると推測する。信長公記で信長が白洲に居た来場者へ声を掛けたのは、ここからであろう。
天主南東の突出している部分(附櫓)は、信長専用の「便所(6-12)」と推定する。当時、便所は不浄な場所とされていた為、「五重目」同様、あえて天主本体から突出させたと考えられる。
また、安土日記には記載されていないが、御門内側の空間は松江城の様な「天主内虎口(6-13)」と推定する。四方に狭間が在り鉄砲や弓矢で狙撃するのだろう。御門の直上(「十二畳 御門の上」の直下)にも空間(6-14)が在り、其処からも攻撃する事ができたと考えられる。
そこから間を開けて北へ「八てう敷(6-15)」「八畳敷(6-16)」と続き「御膳を拵申所也」とあるので、食事を配膳する部屋である。本来ここでは配膳のみで調理はしない。
「六てう敷(6-17)」「御南戸(6-18)」「六畳敷(6-19)」と続くが、「六てう敷」は台所口への通用口で「御南戸」は納戸ではないだろう。この後「御なんと」が出て来る、平仮名表記であり、ここだけ漢字表記なのには何か理由があると思われる。私的な見解だが「妻」と「南」を誤写したのではないだろうか。「御南戸」ではなく「御妻戸」であるなら琵琶湖方面からの信長の通用口と捉える事ができる。但し、台所口へ接続しているので専用ではない。「六畳敷」は信長専用の食事室だろう。
北側に「御土蔵(6-20)」は文字通り土蔵で床板は無く、三和土が露出していたと考えられる。そして「御縁六てう敷」同様にガラリ(隙間?)が在り、「七重目」からの温められた空気が吐出される。それに面して「廿六畳敷 御なんと(6-21)」が在り、「廿六畳敷」は2間×6.5間である。
「西六てう敷(6-22)」は本丸(伝二の丸)への通用口で櫓門の2階部分に接続されている。
「次十七てう敷(6-23)」は最初の「十二畳敷」の西側に配置され、一畳分は「床脇」によって欠如されていると考えられる。十畳と解釈されている復元案も有るが、あくまで「十七てう」として復元する。用途は、引違い戸で仕切られているが恐らく廊下であろう。信長の寝所への通路ではないだろうか。構造上重要な6間四方のコアとなる隅柱が通っているので、部屋としては機能しない。
「十畳敷(6-24)」は侍女の控室で、「十二畳敷(6-25)」は来賓の控室で、所謂「遠侍」ではないだろうか。
西側に「御なんと(6-26)」が7部屋在るが、どちらかと言えば武者走りである。部屋の大きさが明記されていないのは、不整形な平面をしているからだろう。部屋として仕切られているのは、敵が侵入して来た場合の時間稼ぎの為だろう。また、ここから本丸(伝二の丸)へ渡り廊下(多聞櫓)が接続しており、更に「二の丸東溜り」を通って天主南西側(坤)にある小天守(櫓台の規模から推測して、恐らく3層3階建)へ続いていたと考えられる。
「二の丸東溜り」では礎石が検出されているが、この部分には3階建ての櫓門が存在したと考えられる。来客はここから天主へ上がり「十二畳敷」へ通され、信長が準備できるまで待たされたのかもしれない。
全ての部屋を配置しても空間的に余る部分が在るが、そこに廊下や階段を配置すると、給仕の者と信長の動線が分離され、うまく納まる。
また、東端の外壁には、書院への採光の為の連子窓が在ったと推定される。