立面図

 宣教師の記録から判断すると、「三重目」以下は「白漆喰総塗籠」に漆塗りの鉄板が貼られた突上げ窓が配置されていたと考えられる。記録には無いが、南東の附櫓で石垣天端より下の部分は「御門」も含めて「総鉄板貼り」と推測される。 「ある階層は朱く、ある階層は青く」とは「二重目」の表現で、「朱」は外柱の事であり、安土日記の記述と一致する。「青」は連子窓の岩緑青の色だろう。建築様式は「和様」と推定される。「一重目」の全て「金」とは過剰な表現であり恐らく間違いで、「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれている金閣寺を観ると、柱は「金」白壁に「黒」い華頭窓。これらは「安土日記」の記述と一致する。但し、欄干が「朱」塗りかどうかは不明ではあるが、雨曝し部分なので恐らく 朱塗りだろう。

 安土城天主の意匠を決定づける要素として鯱がある。但し、天主において鯱が据えられたのは大棟の東西2箇所と考えられる。では、最上階に頂いているのは何か?それは「鳳凰」である。鯱の由来から鑑みて“神”である信長の頭上に頂くとは考え難く、「鳳凰」が相応しいのではないだろうか。つまり、最上階の屋根は入母屋ではなく方形である。そして「鳳凰」の向きは西向き(厳密には西南西)で、その方向には「御所」が在る。信長は邦慶親王を猶子にしようとするなど、天皇の権威を狙っていた節があり、将来的には御所に居を移して「皇帝」になろうと考えていたのではないだろうか。その考えを具現化したのが「安土城天主」なのだろう。飽くまで私的な考えではあるが。

 また、犬山城や熊本城、岡山城の様に最上階の向きが90度振られているのは、安土城を模したからだろう。正面から見ると遠目には方形に見えるが、側面からでは入母屋である。方形にして「鳳凰」を頂くと、天下人の秀吉に睨まれる可能性が有るので出来なかったと考えられる。

 高さ方向のバランスは、「1:1.618」の黄金比を目安に、大棟の位置を決め「匠明」を参考に「一重目」「二重目」の高さを割り出した。白銀比(1:1.414)では頭でっかちになり、バランスが悪い。

「本柱長さ八間」は礎石からと判断し、「三重目」の床大梁にまで達していると考えられる。よって、その他の階は用途から「五重目」「六重目」をほぼ同じ高さとし、「四重目」の階高をそれより低く設定し、階段の蹴上は姫路城を参考にして、0.78尺として各階の階高を決定した。今後、矩計や伏図、軸組図と作業を進めていけば、多少の上下動はあるだろう。天星尺も考慮しなければならない。

 屋根の勾配は比較的緩やかで、最大でも5寸程度である。それ以上にすると「16間々中」に納めるのが困難になる。「上一重」の勾配は金閣寺、銀閣寺と同じく引き渡し約5寸勾配とした。「三重目」の大屋根、東西の大千鳥破風も同様とした。日本建築では下層階の屋根は5分落とす事が多く、その他の屋根はそれに倣って作図した。

「六重目」の屋根は平面が変形している為、納まりが困難ではあるが、渡り廊下を接続させる事で、その問題を解決できる。逆に、渡り廊下の接続を考慮しないと、正確な復元はできないだろう。

「瓦」について少し見解を示しておく。平成の発掘調査以前に、現地を訪れた事があり、天主台で地表に出ている瓦をみつけた。それは少し湿っていたせいか、光が当たるとパステルグリーン色に見えたのだが、記憶色なので確かでは無い。表面に非常に薄く、何か塗られている様に見えたが。宣教師の記録にも「青色の様にみえ」とある。当時の瓦は焼きムラが多く、色目を統一する為に、焼成後に釉薬を塗ったのか、もしくは、源氏物語の文中に校訂の為に薄められた墨を用いられたが、それを「青墨」と呼ぶことから、色合いの似ている瓦を「青瓦」と呼んだのだろうか。

作図については、非常に難解で当方の技量が追い付いていない為、少しおかしい箇所もあるが、ご容赦頂きたい。また、細かな意匠については省略している。

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